武田二十四将

武田家には有能な配下武将が数多くいました。信玄の言葉にあるとおり、武田家にとって人こそがまさに、城であり、石垣であり、堀であったのです。

なかでも中心的な役割を担ったのが、武田二十四将と称される戦国武将です。二十四将といっても、その中に信玄も一将として数えられているため、実際に描かれているのは二十三将です。その中には武田四天王や甲陽の五名臣に数えられる武将も含まれています。

穴山信君(あなやまのぶきみ)  天文10年(1541年)~天正10年(1582年)
武田宗家の親族であり、出家して⌈梅雪斎不白(ばいせっさいふはく)⌋と号しました。武田家滅亡を前に徳川家康に降るという衝撃的な裏切りを行いました。これは武田家存続のためであったとも言われています。
武田信廉(たけだのぶかど)  天文元年(1532年)~天正10年(1582年)
信玄・信繁の実弟で、信玄の死後に出家して⌈逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)⌋と号しました。信玄の死を隠すため、信廉がその影武者を務めたと言われています。芸術の才があり、武人画家として知られています。
三枝守友(さえぐさもりとも)    天文6年(1537年)~天正3年(1575年)
数多くの合戦で活躍し、駿河の花沢城攻めでは一番槍の武功をたてました。その才を認められて山県昌景の娘婿となり、昌景から名刀⌈吉光⌋を授けられたとも伝えられています。名を⌈昌貞(まささだ)⌋とするも史料もあります。
小山田信茂(おやまだのぶしげ)  天文8年(1539年)~天正10年(1582年)
信玄の信頼厚く、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いなど、多くの合戦に参加しました。しかし、織田・徳川の侵攻により新府城から逃れてきた勝頼の入城を拒み、結果として武田家を滅亡に追い込みました。織田信忠にその裏切りを咎められ、甲斐善光寺にて家族ともども処刑されたと伝えられています。
土屋昌次(つちやまさつぐ)  天文13年(1544年)~天正3年(1575年)
信玄のそばに仕える奥近習を務めていた名将です。信玄が病死すると共に殉死することを願い出ましたが、馬場信春らに説得されて思い止まりました。長篠の戦いで織田軍の馬防柵を突破できず、鉄砲隊の集中砲火を浴びて戦死しました。
甘利虎泰(あまりとらやす)  明応7年(1498年)~天文17年(1548年)
信虎・信玄の二代にわたって仕えた譜代の猛将です。信虎追放のクーデターにも参画し、のちに板垣信方とともに武田家の政務の中心である⌈職⌋を務めました。当時、青年であった信玄に戦の駆け引きを教えたとも伝えられています。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)  大永7年(1527年)~天正3年(1575年)
織田信長との同盟について多くの重臣たちが反対する中で、この同盟の重要性を説き同盟成立に繋げたと言われています。城代として留まっていた岩村城は長篠の戦いののち孤立しましたが、それでも織田信忠の数度の来襲に耐え抜きました。
真田幸隆(さなだゆきたか)  永正10年(1513年)~天正2年(1574年)
信濃先方衆として武田家に仕え、真田家の礎を築きました。野戦も城攻めも得意で、⌈攻め弾正⌋の異名で知られています。信玄でも落とせなかった村上義清の戸石城(砥石城)を謀略をもって一日で陥落させました。
原昌胤(はらまさたね)  享禄4年(1531年)~天正3年(1575年)
信玄・勝頼の二代にわたって仕えた譜代の重臣で、陣場奉行(合戦の際、地勢を見極めて陣取りを策定する職)を務めていました。信玄は昌胤を深く信頼し、⌈陣取りのことは昌胤に任せよ⌋と言ったと伝えられています。
小幡信貞(おばたのぶさだ)  天文9年(1540年)~文禄元年(1592年)
もとは上野の国人であった小幡憲重の子で、父とともに武田家に仕えました。赤備え500騎を率いて数々の合戦に参加し、戦功を挙げています。
真田昌輝(さなだまさてる)  天文11年(1543年)~天正3年(1575年)
真田幸隆の次男であり、信濃先方衆の副将格として活躍しました。北条家との三増峠の戦いでは殿(しんがり)を努めています。長篠の戦いで兄の信綱とともに討死にしました。
曽根昌世(そねまさただ)  生没年不詳
駿河侵攻の際、三枝昌貞や真田昌幸らとともに活躍し、信玄から⌈我が両目の如し⌋と称賛されました。信玄から直々に軍学や築城学を学んでいたと言われています。武田家滅亡後は徳川家康に仕えました。