新発田城(SHIBATA CASTLE)

新発田城 DATA

  • 別名 : 舟形城、菖蒲城(あやめじょう)
  • 築城年 : 慶長3年(1598年)頃
  • 築城者 : 溝口氏
  • 城の種類 : 平城
  • おもな城主 : 溝口氏

新発田城の歴史

新発田重家の館跡に溝口氏が築城

新発田城はもともと、上杉氏の家臣である新発田重家の居城でした。重家はやがて、上杉謙信の跡を継いだ景勝に反旗を翻し対立するようになります。天正15年(1587年)、上杉の軍勢に囲まれた新発田城はとうとう落城し、重家は自刃して果てました。

その後当地は上杉氏の支配下に置かれましたが、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により6万石を与えられて溝口秀勝が入封しました。秀勝は新発田重家の館跡に新発田城の築城を始めます。そうして入封から56年の月日を経て、承應3年(1654年)、3代宣直(のぶなお)のときに新発田城は完成をみたのでした。

新発田城には新発田藩の藩庁が置かれ、溝口氏が12代にわたって藩を治めてきました。明治維新を迎えると廃藩置県を経て明治5年(1872年)には、城内にあった櫓や門の大半が取り壊され、堀も埋め立てられてしまいました。現在残っているのは、表門、旧二の丸隅櫓、本丸石垣などです。

新発田城は、本丸の形が舟のように見えることから舟形城と呼ばれたり、周囲の湿地に菖蒲(あやめ)がたくさん咲いていたことから菖蒲城とも呼ばれていました。

~ 新発田城にまつわる逸話 ~

赤穂浪士の一人である堀部安兵衛の父は新発田城 辰巳櫓の管理責任者でしたが、失火の責任から藩を追われて浪人となりました。ほどなく父は死去。安兵衛は家名再興のため江戸に出て名をあげ、いつの日か赤穂浪士となったのでした。

新発田城跡に復元された辰巳櫓です。
辰巳櫓は本丸から見て南東(辰巳)の方角にありました。古文書等の史料に基づき、三階櫓とともに忠実に復元されています。
新発田城跡はきれいに整備されています。
4月~11月の間だけ開門され、城跡内に入ることができます。辰巳櫓、旧二の丸隅櫓など建物内ものぞいてみましょう。

新発田城の見どころ

江戸時代より残る表門と旧二の丸隅櫓

新発田城の見どころは、江戸時代から現存する表門と旧二の丸隅櫓です。表門は2階建ての櫓門で、北国ならではの海鼠壁(なまこかべ)が採用されています。櫓の2階には石落しが設けられ、攻め手に対し横矢がかけられるように門は石垣より引っ込んだ場所に作られています。

旧二の丸隅櫓はもともと二の丸にありましたが、昭和に入って本丸の鉄砲櫓の跡に移築されました。この櫓も海鼠壁で仕上げられています。

本丸の三階櫓と辰巳櫓は、平成16年に復元されたものです。三階櫓の各階の壁にも海鼠壁(なまこかべ)が採用されており、最上階のT字型の屋根には3匹の鯱(シャチ)が載っています。

この三階櫓は陸上自衛隊の駐屯地内にあり、残念ながらそばに近づくことも内部を見ることもできません。辰巳櫓は各階とも白漆喰塗(しろしっくいぬり)で、こちらは内部を見ることができます。

また、全長350mにも及ぶ美しい切込接(きりこみはぎ)の石垣も見どころの一つです。石垣の隅部は算木積みとなっています。

新発田城には本丸表門が現存しています。
本丸表門は江戸時代に再建されたものと伝わります。攻め寄せた敵に横矢をかけられるよう工夫されていました。
新発田城には旧二の丸隅櫓も現存しています。
二重二階の旧二の丸隅櫓です。切込接の石垣と海鼠壁が美しく、表門とともに国の重要文化財に指定されています。

新発田城の観光情報・交通アクセス

新発田城の観光情報

住所 新潟県新発田市大手町6丁目
開館時間 9時~17時(11月は16時30分まで)
休館日 12月1日~3月31日
入館料 なし
駐車場 あり

新発田城への交通アクセス

電車にて
JR白新線・羽越本線 新発田駅下車、徒歩20分
自動車にて
日本海東北自動車道 聖籠新発田ICより10分前後

新発田城周辺の観光スポット

  • 清水園の入口です。

    清水園 住所:新潟県新発田市大栄町7-9-32

    新発田城から歩いて20分ほどのところに、旧新発田藩の下屋敷(清水谷御殿)と回遊式の大名庭園があります。園内では書院や茶室を見ることができ、資料館には新発田藩に関連する資料などが展示されています。新発田川を隔てた路すじには旧新発田藩の足軽長屋も遺されています。