新府城(SHINPU CASTLE)

新府城 DATA

  • 別名 : 新府中韮崎城(正式名称)
  • 築城年 : 天正9年(1581年)
  • 築城者 : 武田勝頼
  • 城の種類 : 平山城
  • おもな城主 : 武田氏

新府城の歴史

真田昌幸が縄張りした武田氏最後の城

新府城は天正9年(1581年)、武田勝頼が家臣の真田昌幸に命じて築かせた城です。武田氏は信虎の代より躑躅ヶ崎館を本拠としてきましたが、織田信長との決戦に備えるべく、新式の強大な城郭構築を目指したのでした。

城は同年12月に竣工し、勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館から韮崎の新府城へ移りました。しかし、翌年、織田軍が甲斐へ侵攻すると勝ち目が薄いと見た勝頼は自ら城に火を放ち、落ちていきます。

家臣 小山田信茂の岩殿城へ向かった勝頼でしたが、信茂の謀反にあって入城かなわず、天目山を目前に田野の地で自刃。ここに武田氏は滅亡しました。

その後は新府城も廃墟となっていましたが、徳川家康が北条氏と甲州をめぐって争った際には、これを修復して本陣とし、戦局を好転させたと伝えられています。

~ 新府城にまつわる逸話 ~

新府城は武田氏最後の城であり、甲州流築城術の集大成というべき城です。

新府城の麓には新府藤武神社の鳥居があります。
新府藤武神社の鳥居をくぐり登って行きます。石階段は急です。自信の無い方は乙女坂と呼ばれる脇の緩やかな参道を通りましょう。
新府城跡には新府藤武神社があります。
新府藤武神社は新府城築城の際、稲荷曲輪に城の守護神として祀られました。落城とともに焼失した神社を徳川家康が再建したといいます。

新府城の見どころ

随所に土塁や堀の跡が見られる

新府城は、七里岩と呼ばれる台地の上にその地形を活かして築かれていました。最も高いところに本丸があり、西に二の丸、南に三の丸が配されていました。三の丸の南には大手門が建ち、その外に三日月形の掘と丸馬出しが設けられていたと考えられています。

新府城に石垣は用いられず、北西から東にかけては堀がめぐらされていました。その北側の堀に面して、出構(でがまえ)が2ヶ所築かれており、北からの攻撃に備えていたものと思われます。

城跡には、「お新府さん」と呼ばれる新府藤武神社があり、毎年4月には神社の祭典(お新府さんの祭り)が行われ、出店と多くの人でにぎわいます。また、神社の周辺には30本近くの桜(ソメイヨシノ)が植えられており、春には花見を楽しめます。

本丸跡には、石祠・武田勝頼公霊社があります。
地元の人々によって石祠が建立され、武田勝頼が祀られています。勝頼の命日には毎年、慰霊祭が執り行われます。
本丸から二の丸へ行くことができます。
本丸跡をぐるっと見たら、二の丸の方へも行ってみましょう。織田軍が迫っていた当時に思いを馳せます。

新府城の観光情報・交通アクセス

新府城跡の観光情報

住所 山梨県韮崎市中田町中條
開館時間 日中随時
休館日 なし
入館料 なし
駐車場 あり

新府城跡への交通アクセス

電車にて
JR新府駅下車、徒歩15分
自動車にて
中央自動車道 韮崎ICより15分前後

新府城周辺の観光スポット

  • No Image

    新府桃源郷 住所:山梨県韮崎市中田町

    4月初旬から中旬頃にかけて、約60ヘクタールの敷地に桃の花が一面に咲き誇ります。辺り一面、愛らしいピンク色に染まった光景を見ていると、武田氏滅亡へと至った悲劇などまるで嘘のように思われます。