長久手古戦場(NAGAKUTE KOSENJYO)

長久手古戦場

長久手古戦場の歴史

羽柴軍と徳川軍が長久手の地で激突

天正11年(1583年)、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで織田家筆頭家老の柴田勝家を破りました。日に日に力を増す秀吉に対し危機感を覚えた織田信雄(織田信長の次男)は、ついに秀吉と戦うことを決意します。

挙兵にあたり、信雄は徳川家康に援軍を要請しました。いつかは秀吉と戦わなければならないと考えていた家康はこの要請に応え、小牧山(愛知県小牧市)に着陣。この動きに対して、秀吉は犬山城(愛知県犬山市)に陣を構えました。

両軍とも動かずにらみ合いを続ける中で、羽柴方が動きます。家康の陣取る小牧山ではなく、徳川領である三河の岡崎城へ別働隊を向かわせたのです。

しかし家康はすばやくこの動きを察知し、直ちにこれに向かって進軍を開始、急襲しました。長久手古戦場のあたりで両軍は激突し、徳川方の大勝となりました。このとき、羽柴方別働隊の先陣を務めた池田恒興・元助父子と森長可が討死しています。

その後も主力決戦とはならず、同年11月に織田信雄は単独で秀吉と講和を結びました。大義名分がなくなった家康も兵を引き、ここに合戦は終結しました。

国史跡の勝入塚です。
池田恒興が戦死したとされる場所には勝入塚が建てられています。塚の名前は、恒興が出家して名のった勝入斎に由来します。
国史跡の庄九郎塚です。
池田恒興の嫡男 元助が戦死した場所には庄九郎塚があります。こちらは元助の幼名から庄九郎塚と名付けられました。

長久手古戦場の見どころ

古戦場の地形が広場に表現されている

長久手古戦場は現在、古戦場公園として整備されています。公園の中心には長久手古戦場の石碑が建ち、南側には古戦場の位置や地形を模した広場が広がっています。

池田恒興・元助父子と森長可は、この地で戦死しました。池田恒興が討死したと伝わる場所には勝入塚(しょうにゅうづか)が、元助が討死したとされる場所には庄九郎塚(しょうくろうづか)が建てられています。

また、公園から西へ数百メートルの場所には武蔵塚(むさしづか)があり、森長可が討死した場所と伝わります。

公園内にある長久手市郷土資料室では、長久手古戦場のジオラマなど長久手合戦に関する資料を中心に、甲冑や火縄銃などが展示されています。喫茶室も併設されており、ここで一息ついていくとよいでしょう。

長久手古戦場の広場です。
長久手古戦場は古戦場公園としてきれいに整備されています。古戦場の位置や地形が広場に表現されており、興味深いです。
郷土資料館です。
公園内には郷土資料室があります。長久手合戦に関する資料をはじめ、様々な展示を見ることができます。

長久手古戦場の観光情報・交通アクセス

長久手古戦場(古戦場公園)の観光情報

住所 愛知県長久手市武蔵塚204
開館時間 9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合、翌平日)、年末年始
入館料 なし
駐車場 あり

長久手古戦場(古戦場公園)への交通アクセス

電車にて
リニモ 長久手古戦場駅下車、徒歩3分
自動車にて

名古屋瀬戸道路 長久手ICより4分前後

東名高速道路 名古屋ICより10分前後

長久手古戦場周辺の観光スポット

  • 色金山歴史公園の床几石です。

    色金山歴史公園 住所:愛知県長久手市岩作色金

    長久手古戦場の北東に位置する歴史公園です。長久手の合戦に際し、徳川家康はこの色金山に兵を進め、軍議をこらしました。このとき家康が腰かけたと伝わる床几石が公園内に残されています。