高天神城 DATA
- 別名 : 土方城
- 築城年 : 不明
- 築城者 : 不明
- 城の種類 : 山城
- おもな城主 : 小笠原氏、岡部氏
高天神城は武田氏と徳川氏が激戦を繰り広げた地です。その築城時期について明確なことは分かっていませんが、平安時代末期に砦が築かれたという説があります。
城の築かれた鶴翁山は北に東海道、南に遠州灘を望む要衝であり、⌈高天神を制するものは遠州を制する⌋といわれていました。
桶狭間の戦いを経て今川氏が衰亡の一途を辿る中で、永禄11年(1568年)、城主の小笠原長忠は徳川氏への従属を決めます。
元亀2年(1571年)、遠州へ進出してきた武田信玄の軍勢が高天神城に攻め寄せますが、小笠原氏は城兵二千騎をもって籠城し武田軍を撤退させました。
信玄が病に没した翌年には、家督を継いだ武田勝頼が二万の兵をもって進撃し、高天神城はついに落城。以後およそ7年の間、武田氏の拠点となりました。この間、西峰に曲輪が増設されるなど防備が固められています。
城の奪回に燃える徳川家康は天正8年(1580年)、高天神城の周囲に6つの砦を築き城を包囲。武田の援軍はなく、翌天正9年(1581年)、高天神城は落城し廃城となりました。
~ 高天神城にまつわる逸話 ~
武田勝頼に攻められ開城となった折、軍監(軍事の監督)であった大河内源三郎政局は城に残って武田に服さず、8年にわたり石窟に幽閉されました。徳川家康が城の奪回に成功すると政局も救出され、家康から過分の恩賞を与えられたといいます。
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高天神城は標高132mの鶴翁山の地形を巧みに活かして築かれた山城です。急斜面と絶壁に囲まれた天然の要害であり、難攻不落の城と呼ばれていました。
城跡には追手門側と搦手門側からそれぞれ登山道が整備されており、どちらから登っても本丸をはじめ全ての曲輪を見て回ることができます。
高天神城跡の見どころは、随所に残された空堀や堀切、土塁などです。高天神社と馬場平(展望台)の間には切割が設けられ、西の丸・堂の尾曲輪の周辺でも空堀や堀切をはっきりと目にすることができます。
馬場平の先は⌈甚五郎抜け道⌋と呼ばれる尾根続きの険しい道です。ここは天正9年の落城時、横田甚五郎尹松が武田勝頼に高天神落城を伝えるべく城からの脱出に用いた道といわれています。
大河内源三郎政局が幽閉されていたという石牢跡や、搦手門跡から登ったところにある三日月井戸といったところも見どころとなります。馬場平、御前曲輪、三の丸などからの眺めも良好です。
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高天神城跡の観光情報
住所 | 静岡県掛川市下土方 |
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開館時間 | 随時 |
休館日 | なし |
入館料 | なし |
駐車場 | 追手門側と搦手門側にそれぞれあり |
高天神城跡への交通アクセス
- 路線バスにて
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JR・天竜浜名湖線 掛川駅より
しずてつジャストライン⌈土方⌋にて下車、追手門口まで徒歩15分
- 自動車にて
-
東名高速道路 掛川ICより20分前後
東名高速道路 菊川ICより20分前後
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