二俣城 DATA
- 別名 : 蜷原城
- 築城年 : 不明
- 築城者 : 不明
- 城の種類 : 平山城
- おもな城主 : 依田氏、大久保氏、堀尾氏
二俣城は永禄11年(1568年)からおよそ7年にわたって、武田氏と徳川氏がその領有をめぐって激戦を繰り広げた場所です。
この地は天竜川と二俣川の合流地点にあたる天然の要害であり、遠州の平野部と山間部を結ぶ交通の要衝でした。
元亀3年(1572年)、武田信玄は遠江へ侵攻。二俣城へ攻め寄せました。武田軍によって水の手(飲用水の水路、供給できる場所)を断たれた徳川軍は間もなく開城しています。
天正3年(1575年)、徳川家康は長篠の戦いで勝利をおさめると本格的に二俣城攻略に乗り出します。鳥羽山に本陣を置き、二俣城の周りに砦を築いて包囲。ついに二俣城は落ち、家臣の大久保忠世が入城しました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により家康は関東へ移封(国替え)となり、二俣城へは堀尾氏が入城しました。天守は堀尾氏によって築かれたものと考えられています。
その後、関ヶ原の戦いを経て二俣城は城の役目を終え、廃城となりました。
~ 二俣城にまつわる逸話 ~
徳川家康の嫡子 信康は天正7年(1579年)、ここ二俣城で切腹しました。通説では、徳姫(織田信長の長女・信康の正室)から訴状を受け取った信長が、信康の武田との内通を疑い、その切腹を家康に命じたとされています。家康の正室 築山御前もこのとき殺害されています。
スポンサーリンク
本丸の西側には天守台が残されており、二俣城の見どころの一つとなっています。天守台の石垣は野面積みによるものです。
本丸の南側には二の丸が広がり、枡形門跡を見ることができます。二の丸の先は蔵屋敷、南曲輪と続き、それぞれの間には堀切が設けられていました。
本丸の東側には食違い虎口が残されており、他にも随所に土塁や堀跡を見ることができます。また、二の丸には城山稲荷神社が、北曲輪には旭ヶ丘神社が建立されています。
西曲輪、水の手曲輪を通り抜け二俣城址から天竜川沿いに南西へ進んでいくと、徳川家康が本陣を置いた鳥羽山城跡に行くこともできます。
スポンサーリンク
二俣城跡の観光情報
住所 | 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 |
---|---|
開館時間 | 随時 |
休館日 | なし |
入館料 | なし |
駐車場 | あり |
二俣城跡への交通アクセス
- 電車にて
- 天竜浜名湖鉄道 二俣本町駅下車、徒歩15分
- 自動車にて
- 新東名高速道路 浜松浜北ICより10分前後
-
鳥羽山城跡 住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
二俣城奪回に向け、徳川家康が本陣を置いたとされる山城です。城跡は鳥羽山公園として整備され、土塁や石垣、枯山水庭園の遺構などを見ることができます。二俣城の目と鼻の先にあり、歩いて行くことができます。
スポンサーリンク