桶狭間古戦場伝説地(OKEHAZAMA KOSENJO DENSETSUCHI)

桶狭間古戦場伝説地

桶狭間古戦場伝説地の歴史

信長、天の時を得て義元の首を取る

永禄3年(1560年)、駿河・遠江・三河の国主 今川義元は2万5千もの兵を率いて駿府を出発、織田氏の領する尾張へ向け進軍しました。今川方が2つの砦(鷲津砦と丸根砦)を攻撃したことを知った信長は、清州城にて敦盛を舞い、出陣したといいます。

信長が熱田神宮で戦勝祈願し今川軍に向け進軍していくと、突如として辺り一帯に激しい豪雨がたたきつけました。その日、沓掛城(愛知県豊明市)を出立した今川軍は桶狭間山で休息していたところでした。

信長は豪雨に乗じて今川軍に近づき、雨がやむと義元のいる今川本陣へ怒涛の突撃を開始。虚を突かれた今川方が大混乱のなか、ついに織田家の武将 毛利新助が今川義元の首を取りました。

織田軍の兵は2~3千ほどと数の上では圧倒的に不利でしたが、天候を味方につけ2時間という短時間のうちに勝利を納めたのです。信長の名声はうなぎ上りとなり、同時に諸大名から警戒される存在となりました。

一方、今川氏は桶狭間の戦いを経て衰亡の一途をたどります。家督を継いだ氏真には国主としての力はなく、今川氏が滅亡したのは桶狭間の合戦からわずか9年後の永禄12年(1569年)のことでした。

桶狭間古戦場伝説地の北側入口から眺めた光景です。
敷地内のところどころに桶狭間古戦場に関する案内板が立っています。これらを参考に、園内を散策してみましょう。
駒つなぎのねずです。
今川義元が馬をつないだとされる⌈ねずの木⌋が残されています。すでに枯れてしまっているのが残念ですね。

桶狭間古戦場伝説地の見どころ

石碑が義元と家臣の戦死場所を伝える

桶狭間の戦いの主戦場になったとされる場所は愛知県内に2つあります。一つは当ページで紹介している桶狭間古戦場伝説地、もう一つは名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園です。

桶狭間古戦場伝説地は公園として整備されており、公園を囲むようにいくつもの石碑が建っています。それぞれの石碑(七石表という)は、今川義元とその家臣が戦死した場所を示すものです。

明和8年(1771年)に建てられた七石表(一号碑)の近くには、今川義元の墓がひっそりと建てられています。また、墓碑のすぐそばには義元が馬をつないだとされる枯れた⌈ねずの木⌋が見られます。

通りを挟んだ高徳院の方には義元の仏式の墓があり、付近に亡霊が現れることから建てられたお化け地蔵も古戦場伝説地を見つめています。

今川治部大輔義元の墓です。
公園内には今川義元の墓があります。もともとは塚であったところ、墓碑が建てられ整備されました。
今川義元の仏式の墓です。
通りを挟んだ高徳院側に、法名が刻まれた義元の供養塔があります。三百回忌を迎えた際に建てられたものです。

桶狭間古戦場伝説地の観光情報・交通アクセス

桶狭間古戦場伝説地の観光情報

住所 愛知県豊明市栄町南舘11
開館時間 随時
休館日 なし
入館料 なし
駐車場 なし

桶狭間古戦場伝説地への交通アクセス

電車にて
名鉄名古屋本線 中京競馬場前駅下車、徒歩4分
自動車にて

名古屋第二環状自動車道 有松ICより5分前後

伊勢湾岸自動車道 豊明ICより10分前後

桶狭間古戦場伝説地周辺の観光スポット

  • 桶狭間古戦場公園です。

    桶狭間古戦場公園 住所:愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間北3丁目

    桶狭間古戦場と伝わるもう一つの場所が、桶狭間古戦場公園です。こちらにも今川義元の墓碑が建てられており、義元の首を洗い清めたといわれる首洗いの泉が見られます。桶狭間古戦場伝説地から1kmちょっとの距離なので、歩いていくこともできるでしょう。
  • 高徳院の金剛生門です。

    高徳院 住所:愛知県豊明市栄町南舘3-2

    桶狭間古戦場伝説地から通りを渡ったところにある真言宗の寺院です。境内には今川義元公本陣跡の碑が建ち、このあたりに義元の本陣があったことを伝えています。道路ぎわに義元の供養塔(仏式の墓)があります。