武田四天王

武田信玄は数多くの有能な武将を配下としていましたが、なかでも、山県昌景、高坂昌信、馬場信春、内藤昌豊の4名は優れており、武田四天王とたたえられています。その活躍により、全員が名家の名跡を与えられました。

武田四天王と称された4名は信玄亡き後、跡を継いだ勝頼を補佐しましたが、勝頼からは疎まれていたといいます。天正3年(1575年)、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊は長篠の戦いで討ち死にし、高坂昌信もその3年後に海津城で病死。武田家の滅亡がすぐそこまで近づいていました。

山県昌景(やまがたまさかげ)  享禄2年(1529年)~天正3年(1575年)

もとの名は飯富源四郎といい、飯富虎昌の実の弟です。信玄の嫡男・義信と兄・虎昌に謀反の企てがあることを知り、これを信玄に知らせたことで事を未然に防ぎました。飯富氏は断絶となり、昌景は譜代の名家・山県の名跡を与えられて山県昌景と名乗るようになります。

譜代の家老衆となった昌景は、兄から引き継いだ⌈赤備え⌋を率いて武田軍の中心として活躍し、多くの戦功を挙げました。三方ヶ原の戦いでは獅子奮迅の勢いで徳川本陣に迫り、徳川家康に自決を覚悟させたとも言われています。

合戦のほか、内政や外交など多方面でその才を発揮し、信玄に深く信頼されていました。

高坂昌信(こうさかまさのぶ)  大永7年(1527年)~天正6年(1578年)

甲斐国伊沢庄の豪農・春日大隅の子として生まれ、幼名は源助といいました。絶世の美男子であったようで、信玄に見初められて奥近習として仕えるようになりました。信玄は昌信を寵愛し、北信濃の名族・高坂の名跡を継がせて海津城主としています。

判断が的確で退却戦処理能力が高かったため殿(しんがり)を努めることが多く、三方ヶ原の大勝後も深追いに反対したことなどから⌈逃げ弾正⌋の異名を取りました。第四回川中島の戦いでは、馬場信春らとともに⌈啄木鳥(きつつき)戦法⌋の別動隊を率いて戦功を挙げました。合戦の後、昌信が両軍の戦死者を敵味方なく手厚く葬ったと伝えられる首塚が川中島に現存しています。

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の原著者としても知られています。

馬場信春(ばばのぶはる)  永正11年(1514年)~天正3年(1575年)

甲斐の教来石(きょうらいし)氏の子として生まれ、もとは教来石景政と名乗っていました。信玄の初陣にも参加して戦功を挙げ、信虎追放のクーデターにも貢献して侍大将に昇進します。また、跡目の絶えていた武田家譜代の名門・馬場の名跡を継ぐことを許され、馬場信春と名乗るようになりました。

駿河侵攻時には次のような逸話が残っています。今川家が収集した宝物の焼失を惜しんだ信玄がそれらを運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけて、⌈貪欲な武将として後世の物笑いになる⌋として宝物を再び火の中に投げ入れさせます。信玄は己の不明を恥じ、信春に敬意を表しました。

信春は生涯70回を超える合戦に参加しましたが、傷一つ負わなかったと伝えられています。

内藤昌豊(ないとうまさとよ)  大永2年(1522年)~天正3年(1575年)

信虎に仕えていた工藤虎豊の子として生まれ、もとの名は工藤祐長といいました。父が信虎に殺されると甲斐国を離れましたが、信虎追放のクーデター後に信玄によって呼び戻されました。後に、武田家譜代の名門・内藤の名跡が与えられています。

昌豊は、数多の合戦に参加し、数えきれないほどの戦功を挙げていながら、信玄からの感状(感謝状)を1枚も受け取っていません。信玄によれば⌈昌豊ほどの名人であれば常人を抜く働きがあって当たり前⌋ということのようです。山県昌景も⌈典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり⌋と賞賛したと伝えられています。

大きな戦のほとんどに出陣し、信濃国・深志城(現・松本城)や上野国・箕輪城の城代も務めました。