甲陽の五名臣

山本勘助、原虎胤、小幡虎盛、横田高松、多田三八郎の5名は、後年⌈甲陽の五名臣⌋と称されました。 彼らはみな甲斐国外の出身であり、武芸者募集に応じて仕えたり、浪人から仕官した者たちです。

足軽隊を指揮する足軽大将として活躍し、山本勘助を除く4名は信虎・信玄の二代にわたって武田家に仕えました。武田家の直臣として忠義を尽くした彼らは、⌈武田の五名臣⌋とも呼ばれます。

山本勘助(やまもと かんすけ)  明応2年(1493年)~永禄4年(1561年)

⌈甲陽軍鑑⌋以外に記載がなく、謎に包まれた天才軍師です。20歳で武者修行の旅に出、北条や今川に仕官を願い出るもその醜さからか断られてしまいます。その容姿は、小柄で色黒、片目を失明していて右足も不自由だったといいます。

のちに武田家の重臣・板垣信方の推挙により信玄に仕えました。高遠城や小諸城、海津城などの築城に手腕を発揮し、数多くの合戦をその献策で勝利に導きました。

第四回川中島の戦いでは⌈啄木鳥(きつつき)戦法⌋を進言しましたが、上杉謙信にこれを見抜かれて味方に大きな被害を出し、責任を感じた勘助は敵中に突入して討ち死にしたと伝えられています。長年その存在が疑問視されてきましたが、現在は実在したと考えられています。

原虎胤(はらとらたね)  明応6年(1497年)~永禄7年(1564年)

もともとは下総国の千葉氏一族の出で、戦で城を奪われ父とともに甲斐国に落ち延びて信虎に仕えたと伝えられています。⌈鬼美濃⌋、⌈夜叉美濃⌋の名で恐れられ、生涯で38回の合戦に参加し、全身に受けた傷は50ヵ所以上とも言われます。

情け深い武将でもあり、負傷した敵の老将を敵陣まで担いで送り届け⌈また元気な姿で戦場で相まみえよう⌋とねぎらったという逸話も残っています。

小畠虎盛(おばたとらもり)  文明13年(1491年)~永禄4年(1561年)

もとは遠江の出身で、父が信虎に仕官したことで甲斐国に土着しました。⌈鬼虎⌋の異名で恐れられた豪将です。生涯で36回の合戦に参加し、その身に41の傷を受け、感状を36枚受け取ったと伝えられています。

信玄にならって出家し、⌈日意⌋と号しました。死の間際に残した⌈よく身の程を知れ⌋という言葉は有名です。

横田高松(よこたたかとし)  長享元年(1487年)~天文19年(1550年)

近江国甲賀の出身で、元々は六角氏の家臣であったとされています。兵法に通じた戦上手として信頼され、各地で戦功をあげたと言われています。村上義清の戸石城(砥石城)攻めの際に、殿(しんがり)を努めて討ち死にしました。

信玄は、⌈武辺の者になろうと思えば、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ⌋と周囲に語ってその死を惜しんだと伝えられています。

多田三八郎(たださんぱちろう)  不詳~永禄6年(1563年)

もとは美濃の出身で、信虎の代になされた武芸者募集に応じて仕えました。夜襲戦が得意で、夜襲の采配にかけては右に出るものなしと評されました。

信濃・虚空蔵山城の警護を務めていたときに⌈火車鬼⌋という妖怪を退治したという伝説や、湯村温泉で天狗を退治したという鬼の湯伝説などが残っています。