箕輪城(MINOWA CASTLE)

箕輪城 DATA

  • 別名 : ―
  • 築城年 : 永正年間(1492~1521年)
  • 築城者 : 長野業尚(尚業)
  • 城の種類 : 平山城
  • おもな城主 : 長野氏、武田氏、滝川氏、小田原北条氏、井伊氏

箕輪城の歴史

西上野支配の拠点となった長野氏の城

箕輪城は永正年間に長野業尚ながのなりひさによって築かれ、以降、長野氏4代の拠点となった城です。長野氏は3代 長野業政ながのなりまさの時代に全盛期を迎え、武田信玄の度重なる侵攻を防ぎました。

しかし子の業盛なりもりの代となって次々と要所を落とされ、永禄9年(1566年)、ついに箕輪城は陥落。箕輪城には武田四天王の一人 内藤昌豊(昌秀)が城代として入城しています。

武田氏滅亡後には織田家臣 滝川一益が入城しましたが、間もなく本能寺の変が勃発し撤退。箕輪城を手にしたのは小田原北条氏でした。

豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると、箕輪城は徳川家臣の井伊直正に与えられました。井伊氏は箕輪城を大改修し、このときに大手門の位置も変更されたといいます。

慶長3年(1598年)井伊直正が高崎へ城を移すと、箕輪城は廃城となりました。

箕輪城二の丸を見上げます。
箕輪城の搦手口(裏口)です。長野氏・小田原北条氏の時代には、こちら側が大手口(正面)であったといわれています。
箕輪城将士慰霊碑です。
御前曲輪には箕輪城将士の慰霊碑が建てられています。落城の際、長野業盛が自刃した持仏堂がこの曲輪にあったと伝わります。

箕輪城の見どころ

南北を分断する大堀切と巨大な空堀

箕輪城の最大の見どころは、二の丸から鍛冶曲輪かじくるわにかけて設けられた壮大な大堀切と、本丸・御前曲輪の周りに巡らされた巨大な空堀です。

箕輪城は城の中間に設けられた大堀切によって南北に分断されており、土橋一つで連絡していました。万一、南北どちらかを攻め落とされてももう一方で戦うことができるようにと考えられていたようです。

大堀切の北側には本丸・二の丸をはじめ御前曲輪、通仲曲輪、稲荷曲輪など多くの曲輪が築かれています。それぞれの曲輪を隔てる巨大な空堀を見て回りましょう。最大幅30m、深さ10mというその規模の大きさに圧倒されるはずです。

御前曲輪西側の空堀や三の丸、鍛冶曲輪、虎韜門ことうもんなどには、当時の面影を残す野面積みの石垣が見られます。これらの石垣や堀などは、井伊氏が城主となっていた時代に築かれたものと考えられています。

大堀切と土橋の先に郭馬出が見えます。
細い通路(土橋)の左右は壮大な大堀切となっており、ここで城が南北に分けられています。土橋の向こうには郭馬出がありました。
本丸南側の空堀です。
本丸と御前曲輪を囲むように、巨大な空堀が設けられています。空堀だけ見ても城のスケールの大きさを感じます。
箕輪城本丸跡です。
かつて本丸があった場所です。天守閣は築かれず、城主の館があったと想定されています。東側には土塁が残されています。
御前曲輪西側の石垣です。
御前曲輪西側の堀に野面積みの石垣が確認できます。このあたりに曲輪間を結ぶ橋が架けられていたようです。

箕輪城の観光情報・交通アクセス

箕輪城跡の観光情報

住所 群馬県高崎市箕郷町東明屋
開館時間 随時
休館日 なし
入館料 なし
駐車場 あり(無料)

箕輪城跡への交通アクセス

路線バスにて

JR高崎駅より

群馬バス伊香保行⌈竜門寺⌋にて下車、徒歩7分

自動車にて

関越自動車道 前橋ICより30分前後

関越自動車道 駒寄スマートICより20分前後

箕輪城周辺の観光スポット

  • 長純寺です。

    長純寺 住所:群馬県高崎市箕郷町富岡852

    長野業政の父 信業(憲業)が創建した長野氏の菩提寺です。寺には長野業政の木造が安置されており、本堂の裏手(墓地の奥)には業政とその夫人の墓がひっそりと建てられています。
  • 長年寺です。

    長年寺 住所:群馬県高崎市下室田町1451

    長年寺は初代 長野業尚が創建した寺で、箕輪城跡から12kmほど離れた場所にあります。本堂の左手には長野氏累代7名の五輪塔の墓が建ち、五輪塔墓石の最下段にはそれぞれの戒名が刻まれています。