石垣山一夜城 DATA
- 別名 : 石垣山城、太閤一夜城
- 築城年 : 天正18年(1590年)
- 築城者 : 豊臣秀吉
- 城の種類 : 山城
- おもな城主 : 豊臣氏
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える軍勢で小田原城を包囲しました。このとき秀吉が築城して本陣を置いたのが、石垣山一夜城(石垣山城)です。
小田原城一帯を見下ろす笠懸山に築かれた石垣山一夜城は、決して一晩で築城されたものではなく、実際には80日以上の日数をかけて築かれたといいます。
築城のあいだ城は樹木で隠され、城ができたところで樹木を切り払うことで、あたかも一夜にして城が現れたかのように見せかけたのでした。これには敵の士気を下げようとする秀吉の明確な意図がありました。
惣構えで城下町を囲い、難攻不落の堅城とうたわれた小田原城でしたが、包囲からわずか3ヶ月で開城。北条氏直は城兵の命とひきかえに降伏しました。
石垣山一夜城跡は国の史跡に指定され、歴史公園として整備されています。
~ 石垣山一夜城にまつわる逸話 ~
石垣山一夜城は小田原城側からは立派な城に見えましたが、急造の城であったため、反対側はまだ未完成だったといいます。城には、千利休や能役者などの他、淀殿ら側室も呼び寄せられました。
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石垣山一夜城は、野面積みで造られた総石垣の城でした。築城にあたっては、穴太衆と呼ばれる石工集団を連れてきて石積みをさせたといいます。
城跡には400年以上経った今でも随所に石垣が残されており、かつての城の姿を偲ばせます。特に石垣が多く残っているのは、駐車場近くの南曲輪下、井戸曲輪、二の丸です。
井戸曲輪は石垣山城跡の中で最もよく石垣が残っている場所です。底に作られた井戸は淀殿も使用したと伝えられ、淀殿の化粧井戸とも呼ばれています。
二の丸(馬屋曲輪)は芝生広場となっていて広々としています。当時は馬屋があったともいい、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧き水もあったという言い伝えがあります。
二の丸の北側には櫓台跡が残されており、北西隅に設けられた展望台からは小田原城を見下ろすことができます。また、本丸の物見台からの眺めも良好です。
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石垣山一夜城歴史公園の観光情報
住所 | 神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪 |
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開館時間 | 随時 |
休館日 | なし |
入館料 | なし |
駐車場 | 無料駐車場あり |
石垣山一夜城歴史公園への交通アクセス
- 電車にて
- JR東海道本線 早川駅より徒歩50分前後、タクシーで10分前後
- 自動車にて
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西湘バイパス 小田原ICより15分前後
小田原厚木道路 小田原西ICより10分前後
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小田原城 住所:神奈川県小田原市城内6-1
戦国時代、小田原北条氏の本拠となっていた城です。城下町を囲む総延長9kmの惣構えが構築され、中世最大規模の城郭を誇りました。天守閣からは相模湾や小田原市内を一望できます。 -
北条早雲像 住所:神奈川県小田原市城山1
小田原駅西口駅前には北条早雲像が建てられています。これは、早雲が小田原城を奪取した当時の様子を表現しているそうです。早雲は牛の角に松明(たいまつ)を括りつけて大軍に見せかけ、大森氏を討ったと伝わります。 -
北条氏政・氏照墓所 住所:神奈川県小田原市栄町2-7-8
墓所に見られる五輪塔(大・中・小)はそれぞれ、北条氏四代 氏政とその弟 氏照、氏政夫人のものと考えられています。五輪塔の前には、氏政と氏照がその上で自刃したと伝わる生害石があります。
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