武田家の姫

信玄には正室である三条の方のほか、3人の側室がいたといわれています。彼女たちと信玄の間には多くの姫君が産まれましたが、その多くは政略結婚の道具として利用され、幸薄い生涯を送ったそうです。武田家の姫君たちは、どんな思いで戦国の世を生きたでしょうか。

信玄の母・信虎の正室

大井の方(おおいのかた)  明応6年(1497年)~天文21年(1552年)

大井信達(おおいのぶさと)の娘で、武田家との和睦のために差し出されて信虎の正室となりました。嫡男の信玄をはじめ、信繁、信廉らを産み、信虎が駿河へ追放されたのち仏門に入りました。

天文17年(1548年)の上田原の戦いにて敗れた後も留まり続けた信玄に帰陣を促したと伝えられています。躑躅ヶ崎館北の御隠居曲輪に移ったことから、御北様と呼ばれ慕われました。

信玄の正室・側室

三条の方(さんじょうのかた)  大永元年(1521年)~元亀元年(1570年)

公家の名門・三条家に生まれ、天文5年(1536年)に信玄の正室として迎えられました。快川紹喜の言葉によれば、春の陽光のように明るく穏やかな人柄であったようです。

信玄との間に、嫡男の義信をはじめ、北条氏政の正室となった黄梅院(おうばいいん)や穴山信君の正室となった見性院(けんしょういん)らをもうけました。

諏訪御料人(すわごりょうにん)  享禄3年(1530年)~弘治元年(1555年)

諏訪大社の大祝(おおはふり)を務める諏訪の名族・諏訪頼重の娘であり、後に、父を死に追いやった信玄の側室となりました。

天文15年(1546年)に後継者である勝頼を産み、その9年後に二十代半ばで生涯を閉じています。信玄に翻弄され、薄幸の人生を送った美しき姫として伝えられています。

油川夫人(あぶらかわふじん)  享禄元年(1528年)~元亀2年(1571年)

武田家の支流である油川信友の娘として生まれ、17歳のときに信玄の側室に迎えられました。側室の中で最も信玄に寵愛されていたとも言われ、仁科氏を継承した盛信や上杉景勝の正室となった菊姫、織田信忠と一時婚約していた松姫らを産んでいます。

信玄の娘たち

黄梅院(おうばいいん)  天文12年(1543年)~永禄12年(1569年)

信玄と三条の方の間に生まれた長女です。甲相駿(武田・北条・今川)三国同盟締結のあかしとして、天文23年(1554年)、北条氏康の嫡男・氏政のもとに嫁ぎました。

しかし、永禄11年(1568年)、信玄の駿河侵攻によって三国同盟は崩壊し、黄梅院は氏政と離縁させられてしまいます。その翌年、失意のうちに亡くなっています。

松姫(まつひめ)  永禄4年(1561年)~元和2年(1616年)

信玄と油川夫人の間に生まれ、わずか7歳にして織田信長の嫡男・奇妙丸(のちの信忠)と婚約させられました。しかし、信長の盟友・徳川家康と三方ヶ原の戦いで刃を交えると織田との関係も破たんし、婚約も解消されてしまいます。

武田家が滅亡すると武蔵国に逃れ、出家して信松尼(しんしょうに)と号し、武田一族と織田信忠の冥福を祈ったと伝えられています。

菊姫(きくひめ)  永禄6年(1563年)~慶長9年(1604年)

信玄と油川夫人の間に生まれ、甲越(武田・上杉)同盟締結のあかしとして上杉景勝のもとに嫁ぎました。景勝との間に子はできませんでしたが、関係は良好であったようです。上杉家中では甲斐御料人と呼ばれ、敬愛されていました。